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『雪原の足跡』
容量:14361Bytes=7180.5文字=原稿用紙約20.25枚
 この物語はフィクションであり、実在の人物、団体には一切関係がありません。また、作中の記者の仕事風景に関して、作者の想像で補っている部分があり、実際とは異なるという事も重ねてお断りしておきます
 まるで人生のようだと、目の前に伸びる雪道を眺めながら、田原功治は呟いた。足跡一つ無い真っ白な地面。初めて踏み出す場所も、実はとっくに誰かが通り過ぎている。振り返れば少し前に自分が歩いた道が見え、やがてそれも消えていく。誰かがその足跡を、たどりでもしない限り。
 そんな情景は更に、三十年間見続けているグラウンドを連想させた。「誰にも踏み荒らされていないマウンドに立てるから、先発にこだわりたいんです」そんな風に語った選手を思い出す。「それじゃあアイドルなんかの始球式のあとは気が乗らないでしょう?」そんな失礼な質問を後輩がしてしまい、思わず背筋が凍りつきそうになったが、その無骨な選手が真面目な表情のまま、「顔次第だな」、なんて答えたのには思わず苦笑した覚えがある。
 ちっとも目的地の見えない道に毒づきながらも、その情景は彼の頭の中に眠るいくつかの情景を想起させていた。
 色んな人々の残滓が降り積もり、やがて風化してはまた新しい薄衣がかけられる。自分の欠片がどれだったのかわからなくなっても、舞い落ちる粉雪の中、似た結晶を見つけることは出来るだろう。
 そんな思いに浸りながら歩いていると、吐く息の向こうに古いホテルの姿が見え、彼はようやく安堵の溜息をついた。


 そのホテルのロビーは閑散としていた。視界の隅でボーイらしき青年が欠伸をかみ殺しているのが見える。
 大きな窓の向こうには真っ白な景色が広がっている。『彼を育てた雄大な自然は、この日見事な雪化粧をまとい』……そこまで手帳に書いたところで、田原はペンを止めた。鈍行の電車の窓越しに感動した景色は、このホテルまでの道のりの間に恨めしいものに変わっていたからだ。不慣れな雪道は、同僚の書いた『駅から徒歩15分』の距離を二倍に伸ばし、頭のてっぺんからつま先まで冷え切った体にコーヒーを三杯注がせた。だからロビーの窓を眺める彼の視線は、ただ隙間風が入ってきやしないかと心配するだけのものになっている。
 灰皿に置いていた煙草は、いつの間にかフィルターだけになっていた。ぼとりと根本から灰が落ち、彼は嘆息して新しい煙草に火をつける。腕時計で時間を確かめ、手帳のページをめくった。すぐに今日のインタビュー相手の名前が見かり、その情報をもう一度見返す。
 プロフィールの確認や、インタビューの内容決めは電車の中で済んでいた。目新しいことは何もない。彼は手帳を手にしたまま椅子に深く体を預け、あの夏の匂いを思い出そうとする。
 夏の兵庫県予選三回戦、彼がバックネット越しにその少年を見たのは、その一度きりだった。その日の主役は、しかしその少年ではなく、そして、田原のお目当ても、マウンドに上がるもう一人の高校生だった。
 試合は気の毒なくらい一方的な展開で、対戦相手の強豪校は、一年生の頃から将来を有望視されている金の卵を先発に指名していた。うなりをあげる速球がミットをばちんと鳴らし、鋭角に曲がる変化球は相手のバットをすり抜けていく。コールド寸前、誰もが諦めている中で、もう一つのマウンドでは細身の少年が一人孤独に立ち続けていた。
『山本直人。右投右打、柳杜高校3年、175cm62kg。オーソドックスなオーバースロー。角度、腕の振り良し。直球は制球は悪くないが球威不足。球速は130km前後。変化球はスライダーのみ、制球は悪い。特に左の内角へ狙った球は真ん中に集まる。110km前後。一塁方向への尻の落ちが浅く、前にややつっこみ気味。クイック、フィールディングはまあまあ。マウンド度胸丸』
 彼の高校時代の評価は、それだけだった。その秋のドラフトで指名された対戦相手の投手については、その何倍ものメモを取った覚えがある。ようするに、対戦相手がその子で無ければ田原は山本のピッチングを目にすることは無かっただろう。ドラフトにもかかりそうにないその投手についてメモしたのは、職業柄の習慣に過ぎない。
 実際その後、田原は山本の事を忘れていた。春の地方大会から夏の甲子園まで数百試合を見て、それが終わっても社会人、大学生を含めた大きな大会やリーグ戦が続く。それでも役に立つのはほんの一部。うずらの卵でしかない一人の高校生をいつまでも気にかけなどしない。
 山本が海を渡ったと彼が聞いたのは、その翌年の春だった。新しいドラフト候補を物色するため、デスクで資料を整理していた時のことだ。


「独立リーグ?」
 同僚の笹川が見せたプロフィールに書いてある文字に、田原はげんなりとした声を上げた。
「メジャーとマイナー契約もできなかった連中だろう?」
「それは偏見が混じっとるな。田原さん、向こうの事も勉強しとかなあかんぞ」
 笹川がやれやれとたしなめるが、彼はふんと不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
「現地に行ける取材費が下りるっていうなら、いくらでも勉強してやるさ。俺はパソコンの中のデータには興味が無いの」
「でもほら、この防御率と奪三振率見てみいな。このリーグのレベルを差し引いても、十分実力はあるで。おまけにMAX150kmやて」
「投球フォームの写真すらないのに、数字だけで判断できるわけないだろう」
 田原はやや薄くなった頭をぼりぼりとかきながら、目の前の男を眺める。田原と違いまだ二十代の笹川は、客観的なデータこそ選手の実力を色眼鏡無しで見ることが出来ると信じている。一方、田原は数字よりも人を見る。現場百回と声を荒げる古い刑事が田原とすれば、笹川はさながら若いエリート幹部のようだ。二人の相性はすこぶるよろしくない。
 紫煙の霞みの向こうで、また始まったよ、なんて声がする。だが、元来人の批評を気にしない性質の笹川は、お構い無しとばかりに鼻息を荒くした。
「でもな、考えてみ。もしこの兄ちゃんの取材しといて、ドラフト指名されてみい。流石球友マガジンの記者は慧眼やと言われるで」
「もしかしたら指名される、なんてのが一体何百人いると思ってるんだ」
 その若者のついての話は、しばらく平行線をたどった。日本のプロ野球球団に入団するには、毎年秋に行われるドラフトで指名を受けなければならない。その候補達を取材、記事にするのが田原達の仕事だった。例年百人前後の若者達が指名される影で、流される涙はその何十倍にも及ぶ。その全てを誌面に載せるなんて、狭い狭いと不評なこの職場から産み落とされるマイナー雑誌には不可能だ。
 再び田原が山本の名前を目にしたのは、偶然だった。その候補の若者と同じチーム所属の日本人選手一覧に、彼の名前はあった。
「なんだ、また向こうに行ったのが増えたのか。最近の海外への人材流出は多いねえ」
「野球界に限った事やないけどな。お、この子田原さんの担当地区の高校出身やで」
「ほう? どれどれ……柳杜か。見た試合にあったかな……」
 デスクの中から日付とタイトルの入った手帳を何冊か取り出し、その中からお目当ての一冊を見つけ出す。いい加減パソコンでデータ整理くらいしいや、なんて言われたが、黙ってページをめくる。
「ああ、この試合か。滅多打ちになってたみたいだなあ。しかし、この実力で海を渡ったのか」
 あまりよろしくない評価を述べている自分の字に、首を捻る。この実力通りなら、順調に成長しても、日本の大学の二部リーグでもローテーションに入れるかどうか、といったところではないだろうか。
「ま、勇敢なのはええことや。特に、若いうちはチャレンジせなあかん」
「俺に言わせれば、お前もまだ若いんだがな」
 多少の皮肉を込めて言ったつもりだったが、どうやら笹川には伝わらなかったようだ。
 それからまたしばらく、田原が彼について思い出すことは無かった。


 蝉の声と、スタンドからの声援がやたらとうるさかった。夏の日差しは容赦なく少年の体力を奪い、18.44メートル先にあるはずの相棒のミットを、やたらと遠く見せる。
 テーピングを巻いた右足が、ずきりと痛んだ。それでもしっかりと体重を預けようとするが、踏み出した左足には伝わらない。
 フォームがばらばらになっているな、頭のどこかでそんな声がする。甲高い金属音がして、スタンドからの声が蝉の声を掻き消した。ああ、煩い。早く風呂に入って眠りたい――。
 どこか静かなところは無いかな、なんて事を考えて空を見上げた。雲ひとつ無く、高い空。帽子のつば越しの視界の隅で、無遠慮な陽光が見える。
 スコアボードには、出たら目な数字が陳列していた。そのくせ、上の段には0が整然と並んでいる。
 白球が山なりの軌道を描いて、少年のミットへと戻ってきた。慣れ親しんだ感触。縫い目に指を合わせて、握り締める。
 また少し、蝉の声が大きくなった気がした。


 デスクでのやり取りから二年と少し、秋にしてはまだ少し暑い日の事だった。ドラフト会議を目前に控え、田原は相変わらず煙を吐き出し続けるデスクの上の資料まとめに追われていた。
「田原さん、ニュースやで。独立リーグのチームから解雇なった選手がトライアウト受けに来るそうや」
 笹川が大声を上げながら、プリントアウトされた資料を持ってくる。年齢が三十の大台に乗ったはずなのに、落ち着きの無さは入社当時のままなのはどういうことだろうと、田原はこっそり嘆息する。
「こないだもそんな事言ってなかったか?」
「それはメジャーの元マイナー選手や。こっちは独立リーグ。向こうはリーグもチームもぎょーさんあるからきちんと覚えてもらわんと」
 眉間を抑えながら、田原は溜息をついた。アメリカは三十のプロ球団があり、その下には日本の二軍に当たる下部組織が存在する。一チーム一つなんて制限は無く、1Aから3Aまで複数のチームを傘下に置いている。さらにそれぞれのクラスにも複数のリーグがあり、さらには新人のルーキーリーグなどもある。さらにメジャーリーグという大風呂敷の下以外にも、独立リーグやメキシカンリーグ等、その受け皿は日本とは比べ物にならない。ドラフトにしたって向こうは日本の十倍の規模であるし、それをチーム数に直すと一体幾つの数になるのか田原には見当が付かなかった。
「で、その元独立リーグの選手は何人だ」
「二人や。吉岡雄大と、山本直人。23歳と21歳。どっちも右投げの投手で、直球が速い本格派や。成績は吉岡の方がええな」
「故障歴は?」
「吉岡は目立った故障はなさそうやな。山本は、高校三年の時右足を手術しとる」
「かかりそうか?」
 ドラフトに、という意味で田原は聞いた。既に迫っている締め切りは、ドラフト会議直前の特集号だ。春先などと違い、指名見込みの無い選手の記事を長々と載せる事は出来ない。
「微妙やな。日本での実績が無いと判断しづらい。トライアウトの結果次第やけど、見込みはあると思う……」
 数年前、独立リーグ出身であるお勧めの選手が指名漏れしたことを思い出したのか、トーンが下がる。
「よし、一応チェックはしておこう。トライアウト次第では記事に入れられるように頼んでおくよ」
 よしよしと頷く笹川を横目に、田原は渡された資料に視線を落とした。中学時代所属していたリトルリーグのチームから、独立リーグまでの略歴が載っている。その中にあった柳杜という高校名の上で、田原の指が止まった。
「ああ、たしか前にも……」
 なんとなく縁があるな、山本の名前を思い出しながら、田原は呟いた。棚から年号などのタイトルがつけられたファイルを取り出し、その名前の項を探す。
 寸評を眺めながら、田原はあの夏の試合を思い出していた。


 高校の県予選は点差が開くとコールドゲームとなり、九回終了を待たずに勝敗が決まる。七回以降なら七点差、それ未満なら十点差以上が条件となっている。
 四回を終わってスコアは9−0。彼のチームはドラフト候補と噂される相手の豪腕の前に、スコアボードに0を並べるだけだった。安打の欄も0。既にベンチのムードは敗者のそれで、打席に向かう仲間にかけられる声もどこか虚ろに聞こえた。
 タオルを目深にかぶったまま、彼はベンチでうつむいていた。チームメートに黙ってこっそり巻いた右足のテーピングが、ゆるい気がする。長年の相棒だけは違和感を覚えているのか、心配そうに声をかけてくるが、彼はなんでもないさと小さく答えるだけだった。
 あっという間にこちらの攻撃が終わる。こちらは先攻だから、あと一点取られればそこで試合は終わる。三年間の青春も、そこで幕が下りるのだ。だが彼の中では、少しでも長く試合を続けたいというより、早く終わってくれという声の方が大きかった。
 土のグラウンドを眺めながら、マウンドへと向かう。万年一回戦負けのチームが三回戦まで戦ってこれたのは、彼のピッチングに拠る所が大きかった。だが、今日は相手が悪すぎる。たとえ足が万全だったとしても、勝てる可能性はあまりに少ない。
 二回戦を投げ終え、彼の右足は悲鳴を上げていた。大会前に痛めた足は彼から球威という武器を奪い、ついには制球すらも奪おうとしている。だが、監督はエースと呼ばれた彼を代える事はしなかった。勝てる見込みの無い優勝候補を前にして、せめて最後までマウンドに立たせたいと思っていたのだろうか。
 その試合を見つめていた大方の予想通り、あっという間に走者がたまり、一死一、三塁となった。ああ、ようやくこれで終わるんだ。そんな思いと共に、モーションを起こす。視界の隅で、三塁の走者が走り出した。バッターがバットを横に倒す。スクイズだ――そう思った時には、既に白球は指先から離れていた。


 十一月、育成ドラフトを見届け、デスクに戻った田原はほうっと息をついた。日本のドラフトは高校生を対象にしたドラフトに始まり、大学、社会人を対象にした通称大・社ドラフトと続く。そしてその二つのドラフトにかからなかった選手を対象にして、契約金や年俸を抑えた育成選手を指名する、通称育成ドラフトを最後に幕を閉じる。既に記者達は翌年のドラフトのために動き出しているが、夢敗れて涙した多くの若者達には、複雑な想いを抱いてしまう。
 田原さんは浪花節だからねえ、そんな声が聞こえる。彼は感慨ややるせなさを振り払うように頭を振ると、手にしていた煙草を灰皿に押し付けた。次の締切が迫っている事を思い出し、インタビューの予定を確認する。
 そんな中に、山本の名前があった。日本海が見える町に生まれ、一塁手として地元のリトルリーグで活躍。兵庫の高校に入学後、投手に転向するも、最後の夏は故障のため実力を発揮できず。手術とリハビリで順調に回復し、卒業後独立リーグのトライアウトを受ける――。
 同僚の吉岡は、下位指名ながら夢を叶えていた。だが、山本はまだ二十一歳。大学生ならまだ三年生だ。来年の過ごし方次第では、ドラフトにかかってもおかしくはない。
 しかし、あの試合の思い出やその略歴を眺めていた田原が山本に抱いた感傷は、ただのドラフト候補の一人に対してのものでは既になかった。あの夏の日、マウンドにいたのは、もう一人の彼だったのだから――。


 スコアボードには、初めて0が縦に並んでいた。投げそこなった一球が、スクイズを試みる打者のバットが届かない所へ飛んでいったのだ。相棒のミットはなんとかその球をもぎ取り、三塁走者をアウトにした。それで気落ちしたのかどうかはわからないが、その打者は次の棒球を簡単に打ち上げた。
 万全ではないとは言え、渾身を込めた一球が弾き返され、投げ損なった球が失点を防ぐ。彼は自嘲気味に哂っていた。そんな球で無失点に抑えたところで、何になる? このまま点が入らなければ、あと一点取られると終わりになる状況は変わらない。もし次の回も無失点に抑えたところで、どっちにしろ七回の攻撃が終わればコールドだ。向こうの未来のスターの投球を少しでも見たいと思っている観客は、喜ぶかもしれないが。
 遠くの方でミットに収まった快速球が、重い音を響かせる。審判がバッターアウトと叫び、観客がまたどっと沸く。それは、彼の夢の中でいつも鳴り響いていた音だった。
 ふらふらと立ち上がると、ばさり、と、タオルが地面に落ちた。その音が、まるで自分のピッチングに聞こえた。
 彼は健気にマウンドへ向かった。まるで死出の旅に出るかのように、その心にはもはや何の感慨も沸いてこない。
 だが皮肉にも、その別人のような緩い球が、相手打者のタイミングを狂わせた。再び彼は生き延びてしまう。その姿に心打たれたのか、味方の打線は七回の表、それまで走者の一人も出せなかった好投手から、三点をもぎとった。
 しかし、それは彼の悲壮な姿を長く眺めるだけの結果に終わった。チームも、彼も、文字通り力尽きた結果、最終スコア9−3という結果だけが残った。


 フィルターから離れた灰が、ぼとりとテーブルに落ちた。田原は慌ててハンカチでそれを集め、フィルターと共に灰皿に流し込む。
 思い出に浸りすぎたなと、腕時計を見る。待ち合わせの時間まであと五分。やはり、少し早く来すぎたようだ。
 彼ははやる気持ちを抑えながら、今日のインタビューの内容を思い返す。元高校球児同士、キャッチボールをする恒例の企画もあったが、この雪では肩を痛めるかもしれない。心配しすぎかもしれないが、山本が拒否すればそれを受け入れるつもりでいた。田原自身も、こんな寒い日は古傷の右足が痛む。
 今か今かと、動悸が早まる。それほど世間が注目する選手、というわけではないというのに。
 ホテルの回転扉が回る。その向こうに、ジャージ姿の青年がいた。それを眺める田原の瞳はまるで、自分が歩めなかった道を息子に託そうとする父親のようだった。

<了>


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