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『秒針のまどろみのなかで』
容量:30787Bytes=15393.5文字=原稿用紙約45.95枚
 少年は、亡き母の形見である懐中時計を大切にしていた。その時計がまるで、いつか母の事を語ってくれるのではないかと期待しているように。だが、時計に秘められていたのは非現実的な力だった……。


1.0.


 秒針が静かに、だが確かに時を刻んでいく。
 いつからだろうか。その音が、ほんの少しだけ他のものとずれていると感じたのは。
 雑踏の中、いくつもの日常が流れている。そこからそっと離れていくかのように、あるいはエアポケットに落ちたような感覚かもしれない。
 突然襲ってくる疎外感。重く淀んだ何かが、胸の内へと沈殿していく。
 少年は内心の焦りを周囲に気取られないように、そっとポケットに手を伸ばした。指先に触れる硬い感触。それは律儀に動き続ける、古い懐中時計。
 手のひらで覆うようにしてそれを取り出し、銀色の蓋を開ける。装飾も何も無い簡素な時計盤に、安堵の溜息をつく。傷一つ無い硝子に、まだあどけさの残る顔が朧に映っていた。彼はちょっと伸びた坊主頭を眺めながら、これならスポーツマンにはまだ見えるかな、そんな事を思う。だが少なくとも、ボクサーとは思われないだろう。
 顔も覚えていない、母と呼んでいたはずの人の遺品。彼女の顔も、同じようにこちらを覗き込んでいたのだろうか。
 いつの頃からか、それは怠惰な日常の中でぽっかりと浮かんできた好奇心だった。今の家庭には満足しているし、今の母に父と彼がどれだけ救われたか知れない。だから、これは思慕ではない。この時計の元の持ち主について、ただどんな人だったかを知りたいだけだ。しかし、例えば戸籍を調べるとか、手立てはいくつか考えたのだが、写真の一枚も残さず遺品を整理していた父と、それを黙って見つめていた今の母の姿を思い返すと、二の足を踏んでしまうのだった。
 だがそれでも、日増しに強まる興味を彼は自覚していた。
 彼は幼少の頃より運動も勉強も人並み以上にこなせたが、おそらく一流への壁と呼ばれるものにぶつかると、それ以上踏み込むことをしなかった。そんな線引きも、ただ一つの興味の対象に比べ、関心が薄かったせいだ。中学時代は両手の指では数え切れないほどの部活に顔を出していたが、今では体を動かしたいときにつきあってくれる友人、ボクシング同好会会長のトレーニングやスパーリングの相手をする程度だった。
 亡き母について知りたい、だがあまり踏み込んではならない、そんな葛藤を抱えたままの日々が続いていた。常日頃は顔を出さないが、ふと気を緩めるとまるで落とし穴のように突然やってくる思いに囚われる。そんな時、彼は決まってこの時計を眺めるのだった。
 何事か呟くと、彼は再びそれらをポケットへとねじ込んだ。ようやく立ち止まっていたことに気がつき、また押し出されるように足を踏み出す。
 タイルの数を数えていると、むわっとした初夏の風が少年の髪を揺らした。何気なくその方向へと視線を向けると、一定方向へと歩き続ける群れの先、一人だけ立ち止まりこちらを向いている人影が見えた。
 学生やサラリーマン、様々な顔は通勤ラッシュの中、遊歩道を流れていく。立ち止まる人もいない。だからこそ、その姿が奇異に映った。
 よく目を凝らしてみると、体つきと肩にかかる長い黒髪からそれは女性だとわかった。黒いジーンズに、白いワイシャツ。女性にしては高い方だと思うが、この人ごみの中では目立つ容姿でもない。右手を腰に当てて、何かをじっと見つめているようだった。
(俺……?)
 そんな考えが彼の脳裏をよぎるが、考えすぎだろうと頭を振る。そして、いつもの朝のように、学園への道のりを歩き出す。
 女性は最初に気づいたときと同じ方向を、ただじっと見つめていた。20歳くらいだろうか、端正な顔立ちをしている。だが、あまりじろじろ見るわけにもいかないと思い、目の前の知らない背中へと視線を移した。
 それぞれが一定のリズムを保ちながら、人々は流れていく。呆れるくらい律儀に。それがいつもの日常。疑問を感じてはいけない。考えたところで、得られるものは何も無い。訳知り顔で自分に、世間に、納得している振りをしていればいい。
 だが。
 砂の落ちきった砂時計のように、足が止まった。気がつけば、そこは先ほどの女性の横、肩が触れるか触れないか位の距離。おそるおそる目線をあげると、切れ長の彼女の視線が、彼を射抜いていた。
「見つけた」
 短く、だがはっきりと強い意志を覗かせるように、彼女は言った。
「え?」
 思わず聞き返す。だが、それ以上の言葉を続ける前に、彼女は歩き出していた。流れ続ける人の群れとは逆に。
 少年はしばらく、呆けたようにその場に立ち尽くしていた。


1.1.



 チャイムの電子音が、ホームルームの終わりを告げる。教師の言葉の後、がやがやという喧騒が、教室の中を満たしていく。気の長い夏の日差しは、まだ明るく差し込んでいた。
 鞄を掴み、級友の多くは帰途へとついていた。しかし一日の疲れからか、少年は片肘をついたまま、ぼんやりと視線を中空へと泳がせる。そして何人かと挨拶やらを交わすと、力尽きたように机へと突っ伏した。
「……何情けない声出してんの」
 頭越しにかけられる言葉に、少年の肩がぴくりと反応する。聞きなれた声。おそらく向けられているであろう冷ややかな視線を浮かべた表情が、容易に想像できる、
「なんかどっと疲れてさ」
「真面目に授業でも聞いてた?」
「…………」
 色々反論したい点があったが、沈黙で答えることにする。
「ま、そんなわけないよねぇ」
「多感で難しい年頃なんだよ」
 そう言いながら身を起こす、だるそうな表情を浮かべた短髪の少年と、それを呆れたように眺めるセミロングの少女。教室は既に人の姿もまばらだった。
「ま、そんな事はいいからさ、行こうよ」
「行くって、どこに」
 まだ寝ぼけているかのような声を出す少年に、向けられた視線が鋭くなる。
「こないだ約束したでしょ。買い物に付き合うって」
「えー、今度じゃ駄目か?」
 なおも抗議の声を上げようとする少年の首根っこを掴み、息がかかるほどの距離に顔を近づけると、苛立ちの混じった声で少女は言い放った。
「誕生日ってのはさ、今度にはできないらしいよ」


1.2.



 怒っている。
 肩越しの気配ではあるが、それに気がつかないほど少年は鈍感でもない。何かを祝うムードではない。そのまま帰られなかったことがせめてもの幸運だったかもしれないが。
「なあ」
 恐る恐る口を開く。
「何買いに行くんだ?」
 おそらく、いや、当然お金は出す事になるのだろう。財布の中身を勘定しつつ、そんな約束したっけなあと首をひねる。無論、口に出す事はしないのだけれど。
「ケイさ、まだあの時計持ってる?」
「ん……、そりゃまあ、ね」
 なんとなくはぐらかしたような言葉だったが、それ以上に気にかかった。
 少年にとって、懐にいつも忍ばせている懐中時計は、ケイという自分の名前と同じように大事なもののひとつだった。物心ついた時からずっと同じ時を過ごしてきたが、名前とは逆に人目から隠してきたのがこの時計だった。それがこの時計を彼に託した人の意思だったからだが、その事を知っているのは今の両親と、この昔からなじみのカナを含む何人かの近しい友人達だけだった。
「……で、何買うんだよ」
「んー」
 人差し指を頬に当て、考え込む仕草。どうやら怒りは鎮まってくれたようだ。いや、はじめからそれほど怒ってなどいなかったのかもしれない。付き合いが長くても、分からない事だって世の中には沢山ある。
 数秒の沈黙の後、カナは何気なく言った。
「時計」
「……できれば四桁にして欲しいんだけど」
「大丈夫、多分」
 眉間に軽い痛みを覚えながら、商店街の中を歩く。比較的都会である学園のある街から電車を乗り継ぐ事約一時間、下町の風情溢れる、とでも言えば聞こえはいいが、ようするにどこか寂れた田舎の情景だった。まあ、この界隈で買える時計ならそう高額なものではないだろう。
「えーとたしか……」
 辺りを見渡していたカナの足が、一軒の店の前で止まる。
 やや汚れた年季の入ったガラス。シャッターが半分閉じかけた、古ぼけた外装。安堵の息をつきかけて、やめた。
「ここ?」
 所々ペンキのはがれた、看板に書かれた文字を読み上げる。アンティークショップ・カビノチェ。カタカナだが、響きからして欧州あたりの言葉だろうか。ガラス越しに見える店内には、所狭しと大小様々な時計が飾られていた。
 アンティークという言葉に怖気づきながら、ケイは再び財布の中身を思い出していた。


1.3.



「おや、アンタかい」
 カナに続いて店内に入ると、カウンターに腰掛けていた老人が声をかけてきた。人の良さそうなお爺さん、眼鏡の奥の柔らかな眼光を見ると、そんな形容がしっくり来る。カナに続いてケイの姿を見つけたようで、元々細い目がさらに細まった。
「おや、お客さん連れてきてくれたんかい」
「んー、今日はアタシもお客さんだけどねぇ」
 早くも店内を物色し始めるカナと、そうかいそうかい、なんて嬉しそうに呟きながら再び手元の新聞に視線を落とす店主らしき老人。結構な顔なじみのようだ。
 いや、誰とでもすぐ打ち解ける事のできるカナのことだ。知り合って間もないかもしれないが。特に年配層には何故か受けが良いのだ。
「あれー、あの時計は?」
「……ああ。それならほら、取ってあるよ」
 そう言って、カウンターの下から小さな箱を取り出す。両手に少し余るくらいの大きさ、日々の手入れは見てとれるが、積み重ねた時によって汚れた古い木箱。外装には青と黒のラインが幾何学的な螺旋模様を描いていた。
「取っててくれたんだ、わざわざ」
「別に人気の品でもないがねえ。若いお客さんは大切にせんといかんからなあ」
 カウンターの上にそっと置かれたその箱を、にんまりと笑いながらカナが撫でる。
「それが欲しがってた時計?」
「そ。見てみる?」
 そう言いながらも、ケイの返答を待たずにカナは蓋をずらす。手触りのよさそうな布をそっと開くと、銀色の懐中時計が姿を現した。上方に伸びたチェーンに続く、手のひらに丁度収まりそうな丸いシルエット。飾り気のないシックなその様は、ケイにとって見慣れたものだった。
「これ……」
「ね、同じでしょ。やー、こないだ偶然見つけてさ」
 どういった偶然があればカナがアンティークショップの扉をくぐるのか、ケイには想像がつかなかったが、その疑問よりも今は目の前の時計に彼の興味は注がれていた。
「おじいさん、これ、どこで手に入れられたんですか?」
「ほう、お前さんも興味があるんかい?若いのに珍しいねえ」
 そう言って老人は目を細めると、「これはそこのお嬢ちゃんにも教えたんだけどねえ」と前置きし、たたんだ新聞をそっと脇に置いた。
「その時計は、19世紀のイギリスで作られたもんらしくてな。まあだからといって愛想がないもんだから高価なもんじゃあない。当時のもんとしては品は悪くはないが、同時期の王宮貴族向けに作られた品と比べれば凡百の一つだよ」
 何かを思い起こしているような老人の顔を、ケイはただじっと見つめている。
「だがまあ、この頃のは全部手作りでな。ほれ、製造番号と製作者の名前が入っとるだろう。まあ、会社名だったのかもしれんが」
 しわがれた手が、そっと時計の蓋を開く。円の底には、小さな傷のようなものがある。そう言えばこんなのが自分の時計にもあったような気がするが、ケイはこれまであまり気に留めていなかった。しかし言われてみれば、筆記体のような文字にも見える。
「なんて書いてあるんですか?」
「アンネ、038番。それから、レターとあるな」
 食い入るように見つめるケイと、とりあえずうなずいているカナの姿を認めると、老人はやわらかく微笑んだ。
「歴史的、芸術的に貴重なものじゃないからなあ。これに関する資料はほとんど残っておらんが、それでも300程度しか作られなかったらしい。市井向けの時計とはいえ、そういう意味では希少かもしれんなあ」
 話を聞くうちに、ケイの興味はますます膨らんでいるようだった。それだけでも、カナの目的の一つは達成できたと言える。
 ケイは時計や箱をしげしげと眺め、考え込むような仕草を何度か繰り返すと、意を決したように懐から懐中時計を取り出した。
「これ、昔から持ってるものなんですけど、同じ時計ですよね」
 チェーンをズボンからはずし、並べるようにしてテーブルの上に置く。
「ほお……、ちょっと手にとってみていいかね?」
 ケイが頷くのを確認すると、老人は眼鏡のずれを直し、時計を眺めたり音を聞いたりと吟味する。
「うん。たしかに同じ型のようだなあ。アンネの290番……。その後は……、マリオネットかな、こりゃ」
「マリオネット?」
 おそらく、先ほどレターと書かれていた箇所の文字だろう。
「たしか、人形って意味でしたっけ」
「正確には傀儡、つまり操り人形という方が正しいかなあ。会社名とかじゃなさそうだし、時計の名前にしちゃかわってるねえ」
 そう言って、老人はケイに時計を返す。
 操り人形という名前はたしかに妙だと、ケイは長年持っていた時計を訝しげに眺める。そこにタイミングを見計らっていたかのように、カナが声をかけた。
「でさー。ね、これ、買ってよ」
「カナに?」
「時計二個持っててもしょうがないっしょ」
 そりゃそうだ、なんて思いながら、ケイは自分の持っている時計と同じものを欲しがるカナの心中を推し量る。が、すぐにやめて老人に値段を尋ねた。なんとか買える金額だった。
「毎度」
 会計を済ませると、老人に続いて、カナも同じ言葉を繰り返した。
「まいどー」
 それがどちらに向けられた言葉なのかわからないが、彼女なりの感謝の言葉とケイは受け取っていた。昔から、カナはこういう言い回しをすることがあったからだ。ケイもそれに答えるように、「おめでとう」なんて言葉をついでのように続ける。
 二人が店を出ようとした時だった。いつの間にか広げた新聞に再び視線を落としながら、老人は呟いた。
「あんた、時計は何のためにあるか知ってるかい」
 カナは気づいた風もなく、既に店の外に出ていた。少し考えて、ケイが答える。
「そりゃ、時間を知るためじゃないですかね」
 はらりとページをめくる音の後、老人はこう言った。
「世界の中で、自分がどこにいるのかを知るためさ」


1.4.



 都会と田舎の境界線について考えたとき、ケイが思い浮かべるのは夜の町の姿だった。
 シャッターを下ろさず灯りがついたままの店、行き交う人々、それから町を流れる熱気のようなもの。それら全てが疎らなこの町は、やはり田舎なんだなと結論付ける。
 カナを家まで送り、勧められるままに夕食をご馳走になったりとしているうちに、空はどんよりと暗くなっていた。重い雲が月の灯りを遮った商店街は、儚げな街頭と点在する自動販売機の光だけがうっすらと帰路を照らしている。
 たまに道の隅に座り込んでいる柄の悪そうな若者の横を通り過ぎる時以外は、静かな夜だった。家まではさほど遠いわけではないが、普段ならバスを使う距離である。ただ、とっくに早めの最終便は出発していた。
 歩きながらも、手持ちぶさたにケイは手元の木箱を弄んでいた。カナに贈った懐中時計が収められていた箱である。ケイが時計のルーツに並々ならぬ興味を示していたことに気を使ったのか、それとも本心なのかわからないが、「欲しかったのは中身だから」なんて言葉と共に押し付けられたものだった。
 と言っても、箱自体はそれほど情報を秘めているようには見えなかった。外装には黒と青の太い線がなにかの模様を描いていたが、とても何かの手がかりになるようには思えない。内装にいたっては白い布と箱の木目以外には何も見当たらなかった。
 文字を見落としていたという事があったので、今度は念入りに蓋を開けて中をくまなく見てみたり、ゆすって音を確かめたり、外装の螺旋模様をなぞってみたりという行為を繰り返してみる。だが、特に進展のないまま商店街を抜けようとしていた。
 幾つめかの自動販売機の光の下に、柄の悪そうな若者が三人ほど座り込んで話をしていた。時計の事で頭がいっぱいだったせいか、あてもなくさまよった視線がその中の一人と交差する。無関心を決め込んで横切ろうとしたとき、声をかけられた。
「おう兄ちゃん。金持ってねえ?」
 普段なら無視するかする所だ。そもそもこの時間帯に外を出歩くことは少ないのだが、こんな風に声をかけられることは初めてではない。これも田舎と都会の違いの一つかな、なんて考えながら、ケイはこれも普段と比べて随分軽い財布を取り出した。
「いや、それがさっぱり」
 お札入れを広げて逆さまにし、軽く振ってみる。何かのレシートだけがはらりと地面に落ちると、三人組からはどっと笑い声がおこった。
「ああすまんかった。行っていいよ」
 それで興味を失ったのか、再び雑談が始まったようだ。レシートを拾い上げると、その場を立ち去ろうとする。だが、三人組のうちの一人の視線がまだ自分に注がれている事にケイは気づいた。
「?」
 すっとその一人が立ち上がる。中肉中背、茶髪とピアス、何か英語がプリントされた黒いTシャツ、だぼっとした緑のズボンにはじゃらじゃらとしたチェーンが幾つもついていて、いかにも、と言った出で立ちだ。しかし、そのくせサンダル履きなのは、この町の若者らしくもあるが。
 その顔に見覚えはなかったが、男の目線はケイ自身ではなく、手の中の木箱に向けられていた。
「……金がないなら、その時計置いてってもらおうか」
 やや思案した後、男が発した言葉はそれだった。残された二人はぽかんとその男を見上げている。
「何、時計? なんとかショックとかゆーやつ?」
「ねえねえシンちゃん、高いの? それ」
 にわかにざわめく二人。髪の色とシャツが違う以外は似たような格好で、どこかにいそうな不良、といった出で立ちだった。ケイはただじっと、シンと呼ばれた男を見据えたまま動かないでいた。
「……あんた、なんでこれの中身が時計だって知ってる?」
 ケイは腕時計をしていない。となると、シンはアンネという名前の刻まれた懐中時計について何か知っている、そう結論付け、ケイは眼前の男に興味を持った。
 一方のシンは、露骨にしまったという顔をすると、短く舌打ちした。拳を構え、苛立ちを露にする。
「んなことはいいからよお、置いてくのか置いてかないのか、どっちだ」
「――それは、できない」
 はっきりと意思を込め、言い放つ。困った時にする半笑いが、既にケイの顔からは消えうせていた。
 箱だけとはいえ、ずっと探していた手がかりだ。それに箱の中身が空だと知れば、違う中身ではあるが、男の狙いはケイの懐の時計に行き着くだろう。
「ほお……」
 ケイの言葉を受け、男の口元が歪む。互いが相手を相容れないと認識していた。ケイは鞄と箱をそっと足元に置くと、だらんと垂らした両手の拳を軽く握り、相手を見据える。
 左半身を前に突き出した、オーソドックスなスタイル。たまに相手をするボクシング同好会所属の友人に比べ、拳の位置は低い。喧嘩慣れはしていそうだが、格闘経験はないだろうと当たりをつける。
 自動販売機の光に寄せられた羽虫がプラスチックの表皮にぶつかり、小さな音を立てる。そのやや後、男の重心が、後方の右足にかかったのをケイは見逃さなかった。
「……なら、無理矢理にでも置いてってもらうしかねえよなあっ」
 啖呵を切ると同時、男の右足が地面を蹴る。体を捻りながらの右ストレートが、ケイの顔面へと伸びていく。
 瞬間、ただ立っているだけに見えたケイが、体を捻る。右半身をやや沈み込むように前方へ押し出すと、空を切るパンチの後、無防備な顔面が目の前にあった。男の左拳は腰の位置、故にケイの躊躇なく押し上げられた右のアッパーを阻むものはなく、低く重い音が辺りに響いた。
 何が起こったのか、シンには分からなかったかもしれない。童顔の少年の放った一発のパンチによって、自分が倒れるなどとは想像すらしていなかっただろう。だが、鮮やかに入ったカウンターは、それ以上の思考を許さず、意識を寸断していた。
 膝が落ち、続いてゆっくりとシンの体が仰向けに倒れる。左肩から地面に落ちると、シンはそれきり動かなくなった。
「え……?」
 あっけなく訪れた驚愕の結末に、残された二人はうろたえていた。中腰の状態で、地面に倒れた仲間とケイを交互に見比べては、何かを言い合っている。が、その視線がケイのものと交差すると、慌ててその場を逃げ出していた。
「ふぅ……」
 安堵の溜息をつき、構えをとく。久しぶりのグローブ越しでない手応え。それを確かめるかのように、右手を閉じたり開いたりしながら、正当防衛だよな、なんて事を呟いてみる。
 だが、次の瞬間、倒れているはずの男へと振り返ったケイの顔が、ぎょっと固まった。いつのまにかシンが立ち上がっていたのだ。だらりと垂れた茶色の髪の奥には、憎悪のこもった瞳の色が見え隠れしていた。
 朦朧としている様は見て取れるが、それ以上に何か異質な――まるで蛇にはいずり回られているような、そんな気味の悪い視線が、ケイに絡みつく。
「死ぬぜ、アンタ……」
 呪詛のように男はつぶやく。異様な雰囲気に気圧されて、ケイは思わず後ずさった。その動きに合わせるように、だらりと垂れていた男の右腕が、肩と水平になるまで上げられる。
 その直後、男の右手が質量を持った何かを掴んだように、ケイには見えた。


1.5.



 ぺたり、ぺたりと、足音が近づいてくる。秒針の音がやけに大きく聞こえる。一秒、二秒、三秒……、いつもより早い。十ほど数えたところで、その音が自分の心臓の音だと、ケイはようやく気が付いた。
 足音が止まる。シンの右腕が、頭の上に掲げられる。手刀か、拳か、いずれにしろ間合いの外だ。
 だが何か、違和感がある。
 自問する。自分はどこかでこれに似た構えを見たことがなかったか――?
(……剣道?)
 その単語が閃くと同時に、彼は左前方へと体を投げ出していた。何かが風を切る低い音がした後、地面が身体を打つ音に混じって、甲高い金属音が響くのを聞いた。
 慌てて振り返ると、自動販売機のショウウィンドウの三段目がひしゃげていた。無事な照明のいくつかが、プラスチックの窓に食い込んだ何かをぼんやりと照らし出している。棒のようなそれは、シンの右手から伸びていた。
 闇夜に溶け込むような、黒塗りの棒。いや、鋭利なシルエットはそれが刃物である事を示している。長さと形から見ると、日本刀のようだ。
 一体どこから、いやいつの間にそんなものを取り出したのか。ケイの頭にはそんな疑問がわいてきていたが、それを吟味する暇はなさそうだった。刀を引き抜いたシンが、こちらへと向き直ったからだ。
 冗談じゃない。荒くなった息をそんな思いと共に吐き出しながら、脇にあった缶のゴミ箱に手を伸ばす。中身があまり入っていないのか、思ったより軽く持ち上げられたそれを投げつける。その行方を見届けもしないまま、ケイは男に背を向けて走り出した。
 ゴミ箱や空き缶が地面を転がる音がする。避けられたのか、元々見当違いの方向へ飛んでいたのか、それは定かではないが、足止めにはなったのか、追ってくる足音はない。
(え……?)
 何故追ってこない? そんな疑問が彼の足を止めた。二十メートルほど向こうに、シンが先ほどと同じ体勢で立っている。その視線の先には、ケイの鞄とあの箱があった。
 全身に寒気が走る。
 鞄の中身を見ればケイの身元は知れてしまう。それがどういう結果を生むのか瞬時には判断できなかったが、ろくな事にはならないだろう。
 だが、男の手は鞄ではなく、何故かあの木箱へと伸びていた。高校生が買えるような時計だというのに、この期に及んでこだわっているのだろうか。殴られた怒りからだと思っていたが、まさかそんなものを奪うために刀を取り出したとでも?
 だが、もしシンの目的が時計だとしても、鞄はいずれ調べられるだろう。
 「どうする?」頬を伝う冷や汗を感じながら、ケイは自問していた。「大声でも出す?」だが、近くに他の人の気配はない。「警察に駆け込むか?」おそらくそれが一番だろう。しかし、彼の中で誰かが囁いた。「それでお前の知りたい事は分かるのか?」と。
 その言葉でまるでスイッチが切り替わったかのように、ケイの頭は逃げるという選択肢を捨て、冷静になっていった。おそらく命の危険を前にしたというのに、彼の頭の中の天秤はナンセンスな方へと傾いていく。警察に捕まれば、あの男とはもう会うことはないかもしれない。だがそれは同時に、せっかく現れた長年の願いを叶える鍵を手放すことではないのか、と。
 馬鹿げた選択だと自嘲しながら、彼はわざと大きな靴音を立てながら男の元へ歩き始めた。その姿を見とめたシンが、伸ばしていた手を止める。
 警戒しているのか、それとも呆れているのだろうか。ケイはシンの様子を観察しながら、状況を分析する。薄暗い闇夜では、あの黒塗りの刀は厄介だ。こちらは丸腰な上に、あの刀は軌道や間合いが分かりづらい。
「いや、逃げる必要は無いと思って。鞄を置いていっちゃ住所がばれるし」
 声を張り上げながら、距離を測る。十メートル。と同時に、作戦を練る。例えば、刀を寸前で避けて壁に刺さらせるとか。
「そこで取引なんだけど、その時計はあげようと思うんだ」
 男まで残り五メートル。刀がよほどの速度で水平に刺さらない限り、コンクリの壁だと弾かれるのではないか? ならシャッター……いや、袈裟斬りだったらどうなる? 第一、避けられる保証がない。
「それで許してもらないかな。その代わりと言っちゃなんだけど、警察にも言わない」
 刀相手に素手で挑む場合、刀の間合いのさらに内に入るのがセオリー、なんてどこかで読んだ言葉を思い出す。身体を密着させれば、簡単には斬れないだろうし、見えにくい刀の問題も軽減できる。あとは飛び込むための隙を作れれば……。
 残り二メートル弱。もう考えている時間はなさそうだった。足を止め、シンの表情を覗う。
「どうかな?」
 少し芝居臭かったかなと心配したが、どうやら大丈夫だったようだ。
「……いいだろう」
 そう答えると、シンの左手は再び箱へと伸びていった。気取られないよう慎重に体重を右足のつま先へ移しながら、ケイは聞いた。
「その時計、一体なんなの?」
 シンはふんと鼻で哂う。それはまるで、宝石とビー玉の区別がつかない子供を前にしたかのように。
「……コイツは、望みを叶えてくれるのさ」
 妙な答えだと思いながらも、蓋に乗せられる掌の動きは見逃さなかった。それを見ながら、タイミングを計る。
 蓋が開く。空の中身を見て、シンの顔が歪む。その瞬間、ケイの右足は地面を蹴っていた。
「お前――ッ」
 迫り来る影に、シンは箱を手放し、刀を振り上げる。だが――、遅い。
 懐に飛び込んだ右拳が腹部へめり込む。振り下ろされる刀が引いた左腕にかすったが、ケイはお構い無しとばかりに左拳を振り抜いていた。
 頬骨の硬い感触に、少し顔をしかめる。やや狭まった視界では、赤い斑点が中空に弧を描き、シンの身体は地面を転がっていた。
 投げ出された刀を蹴り飛ばし、シンの様子を覗う。立ち上がってくる様子はない。
 先ほどのよりさらに手応えがあったから、今度はしばらく気が付かないだろう。
 安堵の息を吐き出すと、左の上腕に痛みを感じた。先ほどの傷だ。深くはないが、カッターシャツには赤い染みが出来ている。
 傷口を押さえながら、どうやって話を聞きだせばよいのかと、仰向けに伸びたシンを見てケイは思案する。意識が戻れば、また殴りかかってくるかもしれない。それに、さっきのようにまだ武器を隠し持っているかもしれない。
 とりあえず武器の有無だけでも調べておこうと、男の身体を眺める。Tシャツは、何かを中に隠し持っていればごつごつして痛そうだし、特に膨れてもいない。続いてだぼっとしたズボンへと視線を移す。
(ナイフくらいなら入っているかもしれないな)
 その時ふと、じゃらじゃらとついているチェーンが、ポケットへと伸びているのが気になった。左のそれにだけ、伸びている鎖が一本しかない。
 普通に考えれば財布だろう……そう思いつつも、ケイはその鎖の手触りを知っている気がした。その先に繋がっている硬い感触、丸みを帯びたシルエット、微かに感じる振動。取り出してみたそれは、銀色の懐中時計だった。
「どういう……事だ」
 軽く眩暈を覚える。ずっと手がかりを求め続けていた時計と同じものを、一日で二個見るとは。三百個限定なんてあの店主は言っていたが、桁をいくつか間違えたんじゃないだろうか。
 蓋を開けると、やはり同じデザインの簡素な時計盤が顔を出した。懐から携帯電話を取り出し、ライトで裏蓋を照らす。ケイらのよりも幾分か文字が大きい。そのおかげで、なんとか読み取ることが出来た。
「Anne……アンネ、No.012。fo…rg…er……、フォージャー?」
 携帯の英和辞書の機能を呼び出し、文字を打ち込む。
『意味:偽造者、鍛冶工』
 一番目の訳語に偽造なんてつくあたり、あまりいい意味ではなさそうだ。
 他に何か手がかりはないかと、時計盤を見る。すると、先ほどまで動いていた秒針が止まっていた。
 様々な疑問が浮かび、思わず首を捻る。パーツは増えたが、その分謎が深まっていくような。何より、この男は時計を持っているのに何故時計を奪おうとしたのだろう。調子が悪くなったから、では流石にあるまい。
 他に何かないかと懐を漁るが、手がかりになりそうなものは見当たらなかった。腕を組んで考え込む。
「――教えてあげましょうか?」
 突然、背後からかけられる凛とした声。思わずはっとして振り返ると、いつの間に現れたのか、そこには一人の女性の姿があった。
 すらりとした体躯、黒いジーンズに、白いワイシャツ、肩にかかる長い黒髪。右手を腰に当て、切れ長の視線でこちらを射抜いている。どこかで見たような……。だが、記憶を探るより前にかけられた言葉に、ケイの思考はかき乱された。
「はじめまして。あなたの疑問を解くヒントをあげるわ。――マリオネット」


1.6.



 生ぬるい風が、薄暗い公園の中を吹き抜けていく。空には相変わらずどんよりと重い雲が立ち込めていて、星も見えない。シャツはじっとりと汗ばんでいるし、ベンチは硬い。頭は依然混乱したままで、不快な事だらけだ。
 自分をマリオネットと呼んだあの女性の事を、ケイは考えていた。あの後ついてこいとだけ言い残され、迷った挙句連れてこられたのがこの公園だった。懐の時計に彫られていた文字との符号は偶然とは考えられないし、言葉より拳が先に出そうなあの不良よりは話が出来るだろう、そう判断してのことだ。
 だが、彼女を信用したわけではない。タイミングが良すぎないか、そんな疑問が浮かぶ。大体冷静に考えてみれば、傀儡という単語が彫られているのを知っているのは彼自身とカナだけではない。あの古美術店の老人と通じていれば知りえたことだ。だが、あそこで声をかけてきた意図が分からない。
 まあとりあえず話を聞いてみるべきだろう。そう結論付けると、その女性が自動販売機から戻ってきた。スポーツ飲料の缶を手渡される。喉はからからだったので、正直に言ってありがたかった。
 彼がお礼を告げると、彼女は笑いながら手の平を縦にひらひらと振る。最初に感じたものより、随分と親しみやすそうな印象を缶コーヒーを飲む横顔から受けた。
「とりあえず自己紹介でもしましょうかね。ミヤコっていうわ」
「ケイです」
 立ち上がろうとするケイを、ミヤコが手で制した。再びベンチに座らせ、正対する。
「さて、ケイ君。時計は何のために作られたのか、分かる?」
 唐突に感じたが、またこの手の質問かと思い、こっそり嘆息する。
「……時間を知るためでしょう。それとも、世界の中での自分の位置を知るため、とか言うんですか」
「あら、その年でよくそんな事知ってるわね」
 思いがけない賛辞に、まるでカンニングをしたテストの点を褒められたような気恥ずかしさを感じた。
「昔の航海なんかでは天測、つまり太陽や星の位置で緯度を知る事ができた。そうすると時差がわかるから、船の速度と正確な時計があれば、精度の良い地図が作れたというわけ。つまり時計によって場所がわかったとも言えるわね。揺れる船内において秒単位の精度が求められるから、大航海時代の訪れと共に時計は飛躍的な進歩を見せるのだけど」
 まるで教師のような口調で説明をしながら、ミヤコはジーンズのポケットから懐中時計を取り出した。
 本日三個目。ケイの中では驚きよりも、コンビニあたりで売ってるんじゃないかという疑問が勝った。しかしそんな不満顔をよそに、彼女は続ける。
「総じてアンネ・クロックと呼ばれてるこの時計は、それよりちょっと後世に作られたものなんだけど……あなたの時計、螺旋を巻き忘れたことはある?」
 首を振る。ケイは手入れを怠ったことはないし、毎日布で大事に磨いていた。
「私のはね、これを手に入れてから巻いた事はないわ。それでも動き続けてる。この時計にはね、他の動力源があるの。螺旋はただの飾り」
「電気とか?」
 今度はミヤコが首を振る番だった。にんまりと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら。
「これはね、持ち主の欲求を喰うの。それがエネルギー源」
 その言葉に、ケイの表情が落胆の色に変わる。何かの比喩かと思ったが、そうではなくからかわれているのだろう。そんな冗談よりも、聞きたいことは山ほどある。
 そんな彼の反応は、ミヤコの機嫌を損ねたようだった。
「信じてないわね、その顔は。そりゃ突然はいそうですかって理解できる話じゃないけど……まあ黙って聞きなさいよ。性格や環境によって欲求の強さは人それぞれ違うでしょ? で、欲求が強ければ得られるエネルギーも大きい。時計を動かすだけなら必要なエネルギーは決まってるけど、余ったエネルギーが勿体無い。そこで、付加機能が付いているわけよ」
「黄金でも作れるとか?」
 投げやりに答えたつもりだったが、ミヤコは我が意を得たり、とでもいわんばかりに頷いてみせた。
「発想としてはそれでいいわ。ようはね、望みを叶えてくれるのよ。まあ何も無い所から金を作り出したりは出来ないけど」
「……子供だからって馬鹿にしてるんですか?」
 苛立ちの混じった声だったが、ミヤコは動じる様子もない。それどころか、諭すように言った。
「あなたはもうその力を見ているでしょう? 偽造者《フォージャー》が刀を作り出した所を」
「見ていたんですか? ……あれは隠し持っていただけだ。あれが手品だとしても、きょうび子供だって驚かない」
「でも、そうじゃないかもしれないとも思えるはずよ」
「何でも作れるなら銃でも出すべきだった。そうでしょう?」
「欲求から得られるエネルギーには指向性があるの。時計それぞれが汲み取る種類も、それが生み出す効果も様々。そしてそれは全て、万能じゃない」
 一呼吸置いてから、なおも続ける。
「彼の時計は物欲をエネルギーに変え、持ち主の頭の中のイメージという設計図通りに周囲の物質を収集、構築するの。銃の精緻な構造が分からなければ、銃は作れない。彼なら刃物や鈍器がせいぜいと言った所でしょうね。それでも、金ののべ棒くらいなら、黄金に囲まれた場所にいけば作ることは出来る」
 酷い妄想癖のある女だ。しかも、簡単には言い負かせそうにない。ならばと、ケイは質問を吟味する。
「なら、あなたの時計の力ってのを見せてくださいよ。俺のはどうしてか、付加機能が動かないみたいなんで」
 すると、ミヤコは困ったような顔を見せた。
「私の時計の能力は、時計の持ち主を探し出すことと、その名前を知ることが出来るだけで……」
「――話にならない」
 そう短く言い放って、ケイは立ち上がった。手の中の空き缶はとうに潰れている。からかわれている事もそうだが、何より母の遺品をだしにされている事が耐えられなかった。
「この時計の文字を知る方法はそう多くはないけれど、少なくともそんなわけのわからない力が存在して、それによって知るよりずっと簡単だ。悪いけど、これ以上あなたの虚言に付き合っていられない」
「そう」
 意外にあっさりと、ミヤコは引き下がった。ケイと入れ替わるようにして、ベンチに腰を下ろす。
「でもね、用心はしなさい。欲求をエネルギーに変換するより、ずっと大量のエネルギーを得る方法もあるわ。さっきあなたがしたようにね」
「俺は何もしていませんよ」
「たしかに意図してのことではなかったわね。時計を手にして、その名前を言うだけでいいのだもの」
 脳裏に止まった秒針が浮かぶ。ただの偶然だ……。頭を振って、「もしかしたら」なんて言葉を追い払う。
「エネルギーを求めるクロッカー、つまりこの時計の持ち主は、別のクロッカーを狙う。そうなると、危険なのはあなただけじゃないわよ?」
 馬鹿馬鹿しい。妄想癖のある女に、刀を振り回す不良。ようやく現れた手がかりが、何故こんなのばかりなのだろう。
 気を落ち着かせるために、懐から愛用の時計を取り出す。丁度日付が変わろうとしていた。今日は妙な偶然がやたらと起こったなと、嘆息する。
 最後に、気になっていた疑問の一つを訊いてみる。
「最初の、時計は何のために作られたのかって質問、答えはなんだったんですか?」
「そんなの決まってるじゃない」
 背中越しに聞こえる声。
「人の役に立つためよ」
 ゆっくりと歩き出す。そりゃそうだ、なんて呟きながら見た時計盤の上で、三つの針が重なった。

<続>


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